日曜競馬は
非常に厳しい現実がつきつけられた。
昨日に続き、今日も投入額の半分しか回収できなかった。
中京最終でニューモニュメントが、前2頭を豪快に差し切ってくれて、本当にホッとしたが、レースが終わってから予想を振り返ると、一発決めたい気持ちが強すぎて、なかなか非現実的で幸せにはなれない予想だなと言わざるを得ない。
中京1R、中京3Rはともに6着。陣営的には今後に向けて収穫があったかもしれないし、この内容なら未勝利突破できるかもしれないが、今日馬券を買った身としては、なんの収穫にもならない。
やる前から負けが決まっている馬券を買ってしまったんだと思うと、とても空虚な気持ちになる。怒りとはまた違う気持ちである。虚しい。
後追いではだめ、一歩先を狙ってもだめ、ドンピシャを狙うのはなかなか難しい。
30文字前後のコメントで読み切ろうとするのが無謀なのだがね。
阪神5Rでは、タガノウィリアムが一旦抜け出したかに見えたが、初出走の馬に内側から差し切られた。
馬三郎のコメント評価は△だったのだが、調教もよかったし、2歳秋の未勝利でまずまずの競馬ができていれば、この時期の未勝利なら一発あるのでは?という予想だった。
スタートもよくて、直線で抜け出しそうになったときは「小牧、やったぞ」と思ったが、内側から、しかも初出走の馬にやられるとは思わなかった。
冷静に振り返ると、勝ち馬との差は、内外を回ったコース取りの差としか言いようがない。ちょっと勝ちを急いでしまったのかなというところだが、これは責められない。
私も、小牧騎手も勝ち星に飢えて、渇望している状況。苦しい日々が続くが、周りのせいにしても何も解決しないのは分かっている。自分の力で切り拓くしかない。
あと、
初出走の馬がこの時期に来るのは毎年のことで、何かしら対策を立てないといけないと思っているのだが、狙って取れるものではないというのも痛感している。
なので、現時点での私の見解は初出走馬は全部切りである。
そのために何度も苦い思いをすることになるのは目に見えているのだが、実際問題、狙っても取れないわけだから、そこは割り切るしかない。
中山でも
後味が悪い馬券があった。
1Rは育也、2Rは巧也、また木幡一族に煮え湯を飲まされた。
あと2Rでは中川きゅう舎の馬を勝ったのにダメで、1Rで中川きゅう舎の馬がV
こういうめぐりあわせの悪いことばかりである。
メインの高松宮記念は、ルメール不在のここで丸山騎手がGI初制覇を決めるのではと見たのだが、GI初制覇を決めたのは松若風馬騎手だった。
福永を中京8Rで買ったのだが、その前の7Rで福永は勝ち、8Rでは落馬競走中止。
だからと言って、徹底勝負すると、その日に限ってサッパリという始末。
外れるなら、もっと思いっきり、惜しいとも思えないくらい外れてくれたほうがいい。
どんな負け方でも1敗は1敗なわけだから、負けるときは思いっきり散ってくれた方がいい。
そんな愚行を
繰りかえしている間に土日が終わり、残ったのは153,000円分の後悔と行き場のない苛立ちである。やっぱりという結果になってしまった。
このままでは、またEカードローンの沼に沈んでいくばかりである。
僕の負けを喜んでいる人は、それ見たことかと気持ちいい思いだろう。
またこれで一家崩壊に向けて、また一歩前進したな、それ見たことかと思っている人も多いだろう。
ただ、今週の競馬はまだ終わっていない。あと563,000円取るという目標に向けて、最後まであきらめるつもりはない。
出走馬や枠順が変わるし、そもそも当初予想した残り5頭が全部来ても563,000円取れないかもしれないという状況もあって、なかなか難しいところなのだが、心がけひとつでチャンスを掴めるはずである。
ただ、そのためには騎手や調教師や調教助手の好き嫌いや相性の善し悪しというのは、私の心から取っ払わないといけないのかなと思う。競馬で勝つことを目標とするのなら、私情は捨てて、ただ的中のみを目指し、割り切ることが必要なのかなと思う。
まぁ、好きとか相性の善しの方については、良いかなと思うのだが、嫌いや相性の悪しは、私が意地を張っても、結局自分に跳ね返ってくることがよく分かった。
このブログで散々なことを書いても、結局自分が恥ずかしい思いをするだけだし、収支の面でも悪くなるばかりである。そして何より予想そのものが歪んで取れる馬券も取れなくなる。
嫌いでも悪しでも、何かいいところや長所を見つけて、そこから歩み寄ってみる。
いろんな事情を抜いて考えれば、勝ちたくない騎手や調教師や調教助手や馬主や生産者はいないはずである。みんな勝てば嬉しいはずだ。そう信じたい。
これは競馬だけでなく、仕事でも大事な考え方。
嫌いな人や苦手な人に歩み寄るのはつらいことだ。好きになったり得意にするのは無理かもしれないが、マイナスの感情はない関係を作りたいものである。
そのための工夫や観察眼や努力は、結局は自分を助けることになるはずだ。