競馬を続けた先にある世界

ギャンブル障害を抱えながら、それでも競馬で勝ちたい思いを捨てられない40代おっさんのブログです。

とあるギャンブル障害者の思い

今日は

7時始業ということもあり、久しぶりに16時頃に会社を出ることができた。

早く帰れるのは嬉しいのだが、この時間帯は本当に日差しが厳しい。いつもと同じ通勤ルートでも、まったく違う景色に感じる。

昼食を取る時間もなく、夕飯まで持たないと思ったので途中駅の丸亀製麺で、釜揚げうどんを食べた。

会社帰りに食べるそば・うどんはなぜこんなに美味いのかなと思う。

妻に

もう帰り道だから何かお弁当でも買って帰ろうか?とメールしたら、ひれかつと海老フライを食べたいと書いてきた。でもご飯は炊いちゃったから、お弁当ではなくおかずだけとのこと。

息子もひれかつと海老フライ。僕は特ロースかつ。だいたい2,000円くらいだ。

中央競馬0.5レース分のお金で、これだけの食事をすることができるのか・・・とちょっと訳が分からなくなるときがある。

今、わたしは、1点4,000円の単勝を1場あたり5頭買っている。

なぜ4,000円に落ち着いたのか分からないが、5月から3ヶ月くらいずっとこんな感じだ。

金額が大きすぎるなと内心では思っている。でもその一方で最低でもこのくらいは入れないと、的中したときに残念な気持ちになってしまうとも思う。

負けたときになんとか許容できて、勝ったときに本当に嬉しいと思える金額がちょうどこのあたりなのかなと自分では思っている。

正直、2年前の10,000円だった頃を今でも懐かしく思うことがある。

夏の新潟で西田騎手が1日2勝して、345,000円掴んだときの気持ちよさと言ったら・・・

でも当然のことながら1日全敗してしまったこともあって、その夜の寝苦しさと言ったら・・・

ちなみに

このペースで中央競馬を1年間駆け抜けると、4,000円×5R×288日=5,760,000円。

私の年収とほぼ同値になる。

人それぞれ考え方には癖があって、他の人にとっては容易に受け入れられることでも、ギャンブル障害の人間だと到底受け入れられなかったりする。

でも逆もまた然りで、他の人が受け入れがたいことが、ギャンブル障害の人間にとってはしっくり来る場合もあるのかなと思う。

非効率であっても非常識であっても非現実的であっても、とりあえず納得できる落とし所を見つけることができれば、それを足がかりに、その人なりの解決策が描けるのかなと思ったりもする。

勝てば心底嬉しいと思えて、負けてもなんとか自分の中で消化できる・・・

そんなストライクゾーンを、まずは見つけ出せればと思う。なんか年収=1年間の賭け額というのが、現時点での仮の答えなのかな。

そう考えると、一昨年は明らかに自分にとってはキャパシティオーバーだったのかもしれない。

10,000円×6R×288日=17,280,000円。負けたときの心のコントロールが本当にきつかった。

次に

必要なのが、持続可能なギャンブルをしましょうという考え方なのかな。

今週やったことを、来週、再来週、来月、再来月、来年、再来年もできるか?と思いを巡らせてみる。

無理なく、あるいは多少無理すれば続けられるスタイルを構築したい。

本当は自信度に応じて、賭け金を巧みに上下させることができれば望ましいのだが、そんなコントロールを続けるのかと思うと僕は耐えられない。

とにかく勝てると見込みがあると思う馬を5頭絞りこんで、そこに一定額を投下することに専念する。それだったら続けられる!というのが僕の思いだ。

同じスタイルを長く続けられるというのは、ある程度手応えがある証だし、手応えが感じられれば、スタイルを崩すのは嫌だなと思えるだろう。

スタイルを崩すのは嫌だなと思えるようになればシメたものだ。

なぜなら、最終レースにドカンとつぎ込むとか、突然レートをアップするという無謀な行動の抑止力になるからだ。

ギャンブル障害の人というのは、考え方に癖があって、その癖のひとつが頑ななことなのかなと思う。

ギャンブルを続けることに頑な過ぎてギャンブル障害になってしまうわけだが、良い習慣を身につけて、それを頑なに守れば、粘り強い勝負強さに昇華させることだってできるはずだ。

昔の私は、うまく行かないと最終レースにドカンとつぎ込むことを繰り返していた。

ハマったときの気持ちよさは、このブログを読んでいる方であれば分かってくださるだろうが、ミスったときの惨めさも半端ない。

あと、最終ドカンについては、このブログが抑止力になっているのも確かだ。

メインレースまで当たりが来ないと、どうしても最終レースで帳尻合わせをしたくなるのは今も変わらない。

でも、読んでくださっている方と思いを共有するためには、綴った通りの馬券で勝負することが最低限の約束事という思いがあって。

悔しいけどグッとこらえるということも、少しずつできてきたのかなと思うし、こらえてよかった、傷が浅くて済んだと思えた日も増えてきた。

あとは

ギャンブルで勝てなくてもいいけど、負けたくないという思いが強くなった。

このブログでも綴ってきたが、昼食を抜いたり、ポイ活にはまったり、なんとか借金の利息に負けないように頑張っているつもりだ。

しかしそんな頑張りも、競馬で負けてしまっては全く無意味な行為になってしまう。

残るのは虚しさだけである。

競馬でプラマイゼロを死守できれば、借金の利息の勢いに負けてしまうことはあるにせよ、昼食を抜いたことが無駄にはならない。

ギャンブルで負けると、日常生活の頑張りが全て無駄に感じられてしまって・・・

だからこそ、週末の競馬に臨むときはその週に頑張ってきた自分に報いるためにも、なんとか結果を出したいと思う。

AIとは背負っている立場が違うんだ。

今まで精神論的なことばかり綴ってしまったが、もう少し具体的にいえば、予想の前に復習が大事なのかなと思う。

ただ復習にもいろいろあって、自分の過去の的中パターンの癖を分析するのも復習だし、昨年の同時期の傾向を振り返るのも復習だ。

レースリプレイを見るのも復習かもしれないが、ただこれは私ごときより遥かに細かい部分まで分析している人が多く、得るものは多いかもしれないが、それだけで勝てるほど甘くはないと感じている。

自分が過去に勝負した馬をマークし続けて(≠買い続けて)ヤリだと思ったときに買ってみるのもよし、条件が激変(初ダート、去勢など)した馬を買ってみるもよし。

悪い方に出れば前走より更に着順を下げてしまう可能性もあるけど、いい方に出れば頭まであるという馬で勝負してみたいと思っている。

そういうのは、レースリプレイを見てもなかなか洗い出せないんじゃないかな。

きゅう舎コメントの、大崩れはしない=勝つのは難しい、と私は思っている。

そもそも最近は、きゅう舎コメントも読むのをやめた。どうしても安心感があるコメントを重視してしまって、気持ちが守りに入ってしまうんだ。

以前

株式投資もギャンブルと何が違うんだということを書いた。

かたや投資家、かたやギャンブラー、何度でも書くが本当に腹立たしい。

投資家だって勉強が足りなければ悲惨な結果が下されギャンブラー同然となり、ギャンブラーだって勉強次第では立派な投資家になれると思っている。

ギャンブラーはレースごとに勝負の荒波に揉まれ、負ける苦しみを知りながら負けを乗り越える術を身につけるのだが、気軽に投資をはじめた人は、株価が下降戦を辿り続けたときに耐えられるのかなと思う。

いくら余剰資金だとしても、持っていた財産が日ごとに削り取られていく日が続いたら決して心穏やかではあるまい。

そう考えると、投資を推奨する今の風潮は本当に無責任だと思うし、投資をギャンブルより崇高なものと考えるのはやめましょうというのが、とあるギャンブル障害者の思いである。