大型連休も
今日が最終日。そろそろ現実に直面しないといけない。
その一方で、ちょっとホッとしている自分もいる。
率直に言うとコロナ禍以降、休日=苦痛だからである。
平日=苦痛でもあるので、結局は、毎日=苦痛ということになる。
苦痛の種類は日によって異なるが、そういうことになってしまった。
競馬も負けるのが日常なので、基本は苦痛で、たまに勝てば一瞬の安らぎが得られますといった感じである。
幸せが続くということは今の自分にはなくて、仕事からの帰り道にナイター中継を聴くとか、大宮・つくばで月見うどんを啜るとか、的中の瞬間とか、刹那的な幸せしかない。
妻のこと、息子のこと、両親のこと、職場のこと、仕事のこと、おやじの会のこと、そして借金のこと。
歯医者のこと、メルカリのこととかも手をつけたいのだけれど、いろいろ考えなきゃと思っても結局は馬券のことで終わってしまう。
馬券、馬券、馬券、予想、予想、予想、勝利、勝利、勝利・・・それだけで頭が一杯なのが現状。
勝たないことには始まらない、勝つことでしか未来をこじ開けることはできない。
それが、ギャンブル真理教の教義である。
馬券という名の壺を買い続け、時々は幸せをもたらせてくれるのだけれども、ほとんどの壺はハズレ馬券と化し、借金という名の使用済燃料となり最終的には利息と言う名の放射能を放ち続ける。
それを世間一般では、ドツボと言うらしいが、懲りない私は今日も、ギャンブル真理教の川崎支部で壺を買う。
約30年、壺を見続けているのだが、決定的な見極め方を掴めていないというのが率直なところだ。
5個から18個の壺が並んでいて、その中に的中壺というのがあるのだが、それは一つしかなくて、あとは出遅れ壺とか、ハナ差負け壺とか、後方まま壺とか、ロクなものがない。
壺には過去の戦歴が記してあって、真っ白な壺もあれば、もう戦歴を書く場所もないくらい文字で埋め尽くされている使い古した壺もある。中には先週も見たような気がする壺もある。
一口100円を払って、選んだ壺だけを触ることができる。的中壺には赤玉が入っているのだが、たいていは壺を掴んだ瞬間に何も入っていないことが分かる。
カランカランと何かが入っている音がすれば3着以内は確定なのだが、2着・3着の青玉だとアウトである。
赤玉を持っていくと交換所で現金が授けられるのだが、的中者が多いと100円玉と10円玉数枚だったりする。
ただ先日、船橋支部で浦和産の壺を買ったら2,000円ももらえて、そういう喜びがあると今までの苦痛なんか、いっぺんに吹き飛んでしまう。
でも、そうやって手に入れた2,000円もどこかに行ってしまった。
ただ先週の成績が信者の中で上位だったこともあり、今週は一口200円買えることになった。
これまで書いてきて思ったのだが、馬券ってポーカーゲームの一面もあるのかなと思ったりする。
配当の高低は、他の信者(プレイヤー)との争いになるのだけれど、その前にまずは、ギャンブル競馬教の教祖=主催者(ディーラー)に勝たないことには交換所(払戻機)に辿りつくことすらできないわけで。
なのでまずは赤玉が入っている壺を見極めること。そしてその次に、他の信者の動向を類推することなのかなと思う。
川崎
1R トラストガーベラ 野畑 180
3R ドナノーブル 森 240
7R ルーチェビアンカ 中島
9R ミュークレグルス 加藤雄
10R デアシュトゥルム 町田
11R ララシャンドン 御神本
今日の
敗因は4R・ヤマトシルビア(単払660円)を仕留められなかったこと。
前走いい競馬をしていたのは確か。
ただ今回も逃げられるか?という疑念を拭い去ることができず、結局見送りレースにしてしまった。
スタートして逃げるのは難しそうな脚色だったが、藤江騎手の渾身の追いでハナを奪うことに成功。
それでもハイペースになってしまって持たないだろうと思ったが、スリット1本の差で逃げ切ってしまった。
自分の読みの甘さを改めて思い知らされることとなってしまった。
今回メイチの競馬だったので、この先どうかは疑問も、今日は買わないといけない馬券だった。痛恨。